御神幸祭
無形民俗文化財 多賀神社御神幸
形態
御神幸絵巻に示す如く、王朝時代の優雅なる装束に、江戸時代の直垂裃姿を配した典雅にして荘厳なる様式。
行列の先頭・先太鼓より後尾・騎馬後衛までの全長は約二百メートル。
行列中、各所に三十五名の宰判と五十一名の御社用が担当部署を掌握し、進行委員長の指示により行列全体の統率を図りながら行列を進める。
進行方法
行列は御神幸鹵簿の如く従隊にて道路を歩行するが、先ず神社前庭広場に集合。
道具類授受の受え上鹵簿の順序に従い先頭より神社正門に出、旧南多賀町より南方の位置に進み停止。
列次は順次神社正門までの道路に整列し順位の確認を行い、午後三時発御。
御神幸順路に従い粛々と行列を進める。
順路
御神幸順路は略図の如く、
お下りは神社正門より旧南多賀町、新町一丁目、新町三丁目より南小学校通りを経て新町本通りに戻り、頓宮(須賀神社)に午後四時四十分着御。
お上りは須賀神社・新町公園にて休憩。午後五時発御。殿町古町の本通りを通り外町、日吉町、須崎町の一部(駅前)、明治町、古町、旧多賀町を経て午後八時還御。
人員及び使用物
総人員 | 約五百名(御供山笠合計約二百名は別) |
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馬 | 御神馬 一頭、乗馬 七頭 |
道具類 | 飾山 四台、揚輿 一台、獅子楽台 二台、中小合計 七十余種 |
旗類 | 合計 四七流 |
提燈 | 営提燈 数個、高張 六四張、大八角燈 一張、八角燈 一二張、本陣丸燈 一〇張、馬乗・弓張 一八〇個 |
御供山笠・・・四流れ
お下り | 新町区流、多賀区流、古町中区流、古町北区流 |
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お上り | 古町北区流、古町中区流、多賀区流、新町区流 |
特色
御神馬と錦蓋
多賀神社の御神幸が何時頃始まったのか、その年代は詳らかではないが、仁和年間(八八五年)とも、また南北朝吉野時代に足利尊氏がこの地に脱れて来た時、その征討宮懐良親王が多賀神社(当時は新佛合祀の思想があらわれた時代で、多賀大明神、妙見大明神、多賀大神と呼んでいた)を再建された時に、神田、神馬を寄進され始まったともいわれているが、黒田直方藩主長清の代、時の大宮司 青山炊頭敏文によって再興され旧例により現在のような形式に整備され執行されている。
多賀神社の御神幸は、世の御神幸と異なり「不用神輿御神馬」と旧記にあるように神馬に奉載して渡御される「御神馬(御)錦蓋」の形態は(京都の葵祭で有名な賀茂御祖神社の御蔭祭に神馬を用いただけで、これも昭和四十年廃絶)、全国的にも稀有な御神幸式であり、然も平安王朝時代の優美華麗な衣冠に見る紅褐紫白等とりどりの典雅な装いと、更に江戸時代の垂直裃等が織りなす時代色は、総合芸中の粋を集めた一大絵巻として、神社の古き由緒並に御神徳と共に、近隣のみならず全国的に喧伝された有名な存在である。
宮司揚輿
直方(王方)にすぎたるものが三つある
それの一つにごんの揚輿。
多賀神社の御神幸を現在の形式に再興し、御所の勅許を得て元の多賀大神に改めた時の大宮司 青山敏文は京都滞在中、賀茂真淵・荷田春満等と親交があり、共に和歌の復興をはかったり、御所に御進請申し上げ恩賜を受ける等、学者であった。
筑前豊前にある神社の縁起由来書は、この敏文が編んだものが多いといわれ、その徳望博識がしのばれるが京都に於いてこの敏文が葵祭のときに勅許により揚輿に乗ったのが始まりで爾来多賀神社の宮司色が御神幸の供奉に用いることとなった。
「ごん」の語源についてはいくつかの説があるが、敏文が独礼待遇と共に許されたことと、御所の乗物である揚輿が遠隔の地であるこの直方にある不思議さと相俟って冒頭のうたとなり、また御神幸の鹵簿の中へも特別のものとして今日まで伝えられている。
因みに御神馬のことを平常より、「ごんごんさん」の愛称で呼んでいるのは、皆さまよく御存知のことで興味つきないものがある。
獅子楽と雅楽(怜人)
五百名からの御神幸の鹵簿の中で、獅子楽と称する笛太鼓・銅拍子(二十名二組)が外町区と新町区の童子によって「ヤーレ」「ソーレ」の可愛い囃と共に過ぎる怜人による幽玄妙なる雅楽の奏せらるる。
神秘にして典雅、雅やかにして荘厳なる音の協和の中を行列は進み、前に松明紫翳、後に菅翳、両側に八角燈・本陣丸燈等に囲まれて「御神馬(御)錦蓋」が渡御される御神幸鹵簿の内容は、正に非の打ち所のないものとして専門家のいう「正に美事の一語に尽きる」との賛辞も決して過言ではなく、学者であり歌人であった釈迢空折口信夫博士が「多賀の宮 みこしすぎゆくおひ風に われはかしこまる神わたりたまふ」と詠まれたのもここにある。
現在獅子楽は、外町区・新町区の御世話人によって受継がれ、その御苦労は大変なものと聞いているが、より良き伝統を後世に伝えることを切望するのは、一人神社関係者ばかりではなく祭に何かを願う庶民の心として、その御苦労に感謝するところが大きい。
怜人は元来神社雅楽部にて供奉していたが、近年は外部よりの御奉仕によっている。
本陣丸燈
御神幸鹵簿(四二)御神馬(御)錦蓋の両側に(四三)本陣丸燈という提燈がある。
慶長五年の関ヶ原の合戦の後、黒田長政は筑前福岡に封ぜられ、その子高政が直方分藩四萬石の藩主となった。
後長清の時代には五萬石となっているが、藩主は代代多賀神社に対する崇敬殊の外厚く神社の再建改築など盛んに行い産土神としてこれを崇めた。直方支藩は黒田家に於いては高政-之勝-長清の三代とし、各藩主とも多賀神社に対する信仰すこぶる厚く現在に於いても祭禮毎の献供は欠かされることなく続いている。
飾山と御供山笠
飾山は元来高さも四丈~五丈(一二メートル~一五メートル)以上にも及び、無数の提燈によって飾られそれが深夜に揺れながらゆっくり通り過ぎる容子は美麗を極めたといわれている。
ちょうど京都大路を引かれる山鉾をはじめ、種々の飾山が暗闇の中を提燈の明かりに映えて町筋を通る情景を想像していただければよくわかる。
これも何時の頃か姿を消していたのを昭和三十五年、氏子有志の御芳志により昔日の如き大きさにすることはできなくとも(電線その他の架設物のため)現在使用の飾山(日の出の海・高砂山・花山・山鉾)として修復復活された。
現在の御供山笠についての起源は不明であるが、時代の流れと風土の中より生活と祭りに強く結びついたものとして必然的に生まれ積極的に取り入れられたようである。
この御供山笠も往時はその高さも高いものであったといわれ、明治三十四年頃までは古式の山笠があり、お下り・お上りと各町内の山笠流れの順序が定まっている。
明治三十六年から同四十二年頃はすべて据え置いて見る山笠とされていたが、同四十四年以降は再び御供山笠として御神幸に供奉するようになった。
この幽玄典雅なる御神幸の後尾に御供する山笠は、各流れの好みにより人形師が腕を競った飾山笠で、行列の優雅にして荘厳な趣とは一変して実に勇壮である。
以上特色の概略を述べてきたが、こうした序列の伝承が次代次代へと受継がれ、行列の各宰判の方々と同じように町内の世話人として、御社用、御神馬後、敬神会長、氏子総代、御神馬廻へと進みながら無形民俗文化財多賀神社御神幸を支え、心の遺産が次代へと継承されてゆくのである。